FINE CITY SENRI TSUKUMODAI

津雲公園から現地方面を望む

千里100年邸宅史千里100年邸宅史

受け継がれるのは世界が誇る
田園都市構想の軌跡

年表

日本資本主義の父・渋沢栄一を委員長に、「京阪電気鉄道株式会社」創立日本資本主義の父・渋沢栄一を委員長に、
「京阪電気鉄道株式会社」創立

日本最初の銀行である第一国立銀行を設立し、「日本資本主義の父」と呼ばれた渋沢栄一を創立委員長として、京阪ホールディングスの前身である京阪電気鉄道株式会社は、1906年(明治39年)11月19日に産声をあげました。千年の王城「京都」と商都「大阪」を、京街道沿いに町や村をつないで鉄道を敷設するというプロジェクトは、事業性自体が有望であったのに加え、地域社会の発展に寄与するという高邁な思想に基づくものでした。


急行に使用された100型

渋沢栄一の経営哲学は、ただひたすら私利私益のみに走るのではなく、公利公益も考え、他人の幸せのためにも力を尽くすのが商人の本分だと唱えた「道徳経済合一説」に集約されます。そしてこの精神は現代にまで引き継がれていくのですが、まず最初に花開いたのが、千里線の誕生からでした。

京阪電気鉄道株式会社の創立委員長 渋沢栄一

北大阪電気鉄道株式会社設立。千里山付近に土地購入北大阪電気鉄道株式会社設立。千里山付近に土地購入

治後期から、京阪神地域では京阪電気鉄道をはじめ、多くの私設鉄道が開業。大阪市内から郊外へのびる路線が発達していきます。その中で、1918年(大正7年)に創設されたのが北大阪電気鉄道株式会社。そして、この北大阪電気鉄道と兄弟会社であったのが大阪住宅経営株式会社です。大阪住宅経営株式会社は、大阪商工会議所会頭・山岡順太郎(後の関西大学学長)氏をはじめ、林市蔵大阪府知事、池上四郎大阪市長らによって1920年(大正9年)3月に設立された会社で、北大阪電気鉄道が計画している千里方面への開業を見込んで、千里山付近の土地を購入。郊外住宅地としての開発がはじまります。

英国の田園都市・レッチワースをモデルに、千里山住宅開発。英国の田園都市・レッチワースをモデルに、
千里山住宅開発。

1921年(大正10年)4月1日、北大阪電気鉄道による十三~豊津間が開通。半年後には千里山まで延伸されます。これが、現在の千里線の系譜です。大阪住宅経営株式会社が千里丘陵の一画(約98,000坪)を、英国の田園都市をモデルに「郊外生活の理想郷」と謳い、「理想的田園都市」を目指した土地付き建売住宅を中心とした開発が進められました。この発想のベースは、英国のE・ハワード氏が提唱する「都市と農村の健康」をテーマとした“職住近接”のタウンコミュニティづくり、最初の田園都市レッチワースでした。当初の千里山住宅は、周囲が松や竹、桃畑に囲まれた、まさに田園都市。屋根・窓の形状、レンガの生垣などは、それまでの和風建築とは異なる趣で、サクラやクスノキといった街路樹が特徴的なモダン洋風建築の家並みが印象的だったと言われています。
千里山住宅地は、住宅の建設だけではなく、関西大学千里山学舎をはじめ、千里山花壇の誕生、駅を中心にした噴水ロータリーから延びる放射状の街区計画、上下水道・ガス、テニスコート、駐在所、売店(商店)、公衆浴場、理髪店、小学校、幼稚園などの施設が続々と計画されていきました。国内初の田園都市は、鉄道と駅前の価値を整えた日本独自のスタイルを形成します。


千里山遊園の鳥瞰図 吉田初三郎画


1948年当時の千里山住宅地


千里山住宅地
第一噴水

新京阪鉄道が「山田村・新田村」にて広大な土地を取得。新京阪鉄道が「山田村・新田村」にて広大な土地を取得。

1922年(大正11年)6月、京阪グループは、淀川右岸における新路線の敷設を行うため新京阪鉄道株式会社を設立しました。十三駅~淡路駅~千里山駅間の路線を所有していた北大阪電気鉄道を継承することで、千里山花壇を経営。北大阪電気鉄道は社名を変更し、京阪土地となり不動産事業のみ経営することに。その後、1926年(大正15年)に、新京阪鉄道は京阪土地を吸収し、千里山一帯の土地開発を継承することとなりました。


新京阪鉄道路線図『京阪百年のあゆみ』より出典

注目されるのは、1928年(昭和3年)、新京阪鉄道が大阪住宅経営株式会社を継承し、山田村・新田村にて広大な土地を所有したという事実です。山田村の土地は、その後、弘済会や大阪府へ譲渡されますが、千里山住宅地から始まった「田園都市」構想の理念が、後の千里ニュータウン開発の礎を築くことにまで発展していくのです。

日本初の大規模ニュータウン、
「庭園都市」千里ニュータウンまちびらき。日本初の大規模ニュータウン、
「庭園都市」千里ニュータウンまちびらき。


開発当初の千里ニュータウン 時事通信フォト

1921年(大正10年)4月1日、北大阪電気鉄道による十三~豊津間が開通。半年後には千里山まで延伸されます。これが、現在の千里線の系譜です。大阪住宅経営株式会社が千里丘陵の一画(約98,000坪)を、英国の田園都市をモデルに「郊外生活の理想郷」と謳い、「理想的田園都市」を目指した土地付き建売住宅を中心とした開発が進められました。この発想のベースは、英国のE・ハワード氏が提唱する「都市と農村の健康」をテーマとした“職住近接”のタウンコミュニティづくり、最初の田園都市レッチワースでした。当初の千里山住宅は、周囲が松や竹、桃畑に囲まれた、まさに田園都市。屋根・窓の形状、レンガの生垣などは、それまでの和風建築とは異なる趣で、サクラやクスノキといった街路樹が特徴的なモダン洋風建築の家並みが印象的だったと言われています。
千里山住宅地は、住宅の建設だけではなく、関西大学千里山学舎をはじめ、千里山花壇の誕生、駅を中心にした噴水ロータリーから延びる放射状の街区計画、上下水道・ガス、テニスコート、駐在所、売店(商店)、公衆浴場、理髪店、小学校、幼稚園などの施設が続々と計画されていきました。国内初の田園都市は、鉄道と駅前の価値を整えた日本独自のスタイルを形成します。

日本万国博覧会(EXPO’70)開催。 千里が世界の注目都市に。日本万国博覧会(EXPO’70)開催。 千里が世界の注目都市に。

1965年(昭和40年)、千里丘陵におけるアジアで最初の万国博覧会の開催が決定すると、新たな交通系・道路系の整備が急務となりました。千里ニュータウンの新造成にも伴い、1967年(昭和42年)4月、千里線が新千里から北千里まで延伸し、新千里山駅は南千里と改称されました。


EXPO'70開催当時
大阪府より提供

1970年(昭和45年)、「人類の進歩と調和」をテーマに77カ国が参加した日本万国博覧会は、3月14日に開会式が行われ9月13日までの会期中の入場者数6,421万人は予想をはるかに上回るもの。この日本万国博覧会の開催によって千里の名、および千里ニュータウンを基盤としたまちづくりが全国はもちろん世界にまで知られるようになりました。


開発当初の千里ニュータウン 時事通信フォト

千里・次の100年。エキスポシティ誕生。千里・次の100年。エキスポシティ誕生。

昭和が始まって45年経った1970年に大成功を収めた日本万国博覧会(EXPO’70)。それから奇しくも45年経った2015年(平成27年)11月、EXPO'70開催の地に新たなコミュニティを生み出す「EXPOCITY」が誕生しました。関西圏のみならず日本全国、海外からも人が集まる、日本最大級の大型複合施設は、世界に誇れる日本のランドマークになることを目指します。いま、千里線を基軸とした万博記念公園エリアは、ニュータウンを超えてゆく豊かな未来へと広がっていくのです。


現在の万博記念公園 大阪府より提供


EXPOCITY

田園都市、千里ニュータウン、万博の成功。いま、千里は次の100年へ。田園都市、千里ニュータウン、
万博の成功。いま、千里は次の100年へ。

2018年 京阪不動産による「ファインシティ千里津雲台」竣工予定2018年 京阪不動産による「ファインシティ千里津雲台」竣工予定

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  • ポジション
  • 歴史

参考資料:「京阪電気鉄道株式会社 鉄路五十年」「京阪100年のあゆみ」「千里山開発物語」「吹田市立博物館 公開資料」「関西大学博物館 公開資料」

※掲載の外観完成予想図は、現地周辺写真または現地周辺航空写真(平成27年11月〜平成28年7月撮影)に、外観完成予想図を合成・CG処理したもので実際とは異なります。尚、周辺の景観・環境等は将来変わる場合がございます。

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